私の実家の近くに、その地域のシンボル的な存在である、標高357mの山があります。
一応、国定公園であり、その山頂からは、すそ野に広がる平野と海が一望でき、吹き上げてくる風とともに、とても爽快な場所で、ふもとにある、幾つかの学校の遠足にちょうどいい場所です。
今から10年ほど前、丁度私が実家に戻っている時に、その山の中腹辺りから、スーっと、白いものが上っているのが庭から見えました。
父母たちと「煙?」と話していると、ほどなく、明らかに山から火が出ているのがわかりました。
火の手はあっという間に広がり、消火活動のヘリコプターが来た頃には、家が一軒燃えているのに、一人の人がバケツで水をかけているかのようでした。
そしてどんどん燃え広がり、夜になっても山が赤黒く光り、次の日も次の日もどんどん燃え広がり、夜はとても恐ろしい怪物が襲い掛かってきているかのようでした。
自衛隊や消防署、地元の消防団の昼夜を問わずの消火活動もむなしく、4日目には裾野の民家は非難するまでになりました。
最初は人が捨てた煙草だったかもしれませんが、いつしか“自然”という魔物に変わっており、とても人の手でどうかなるものではないことは明らかで、本当に人間のちっぽけさを思い知らされました。
そして5日目。
雨が・・
5日目にしてようやく雨が降り、一日にしてその魔物を撃退してくれたのでした。
この時ばかりは、自然の恐ろしさと優しさを見せつけられたかのようでした。
結局、自然を制するものは自然しかない・・。
そして・・
その山火事からひと月ほどたったある日、父が、山頂にある小さな“お堂”が気になるからと言って、荒廃と化された山に登りました。
木も、草も何もなく、足を滑らせたり、風が吹いてよろけたら、どこまでも落ちていきそうな荒寥とした、変わり果てた山を、涙を流しながら山頂まで登りました。
そして、頂上にたどり着いた父の目に映ったものは・・
観音堂の無事な姿でした!
なんとお堂のすぐ手前で、四方からの火の手が止まっていたのです!
父はまたそこで涙を流しました。
見えないものの存在は、
見えなくても
やはりあるのだと。
そして時に、
姿は見えずとも
その力を見せてくれるものだと。