この本の中の一節。
「厳しい自然環境に生きるエスキモーの人々の話を読んだことがある。
食物を求めて氷原を移動していよいよ食料が尽きたとき、
エスキモーの老人は自らその場に座り込み、
他の人々もまた老人を残して移動をつづけるという。
ゆとりという言葉の入り込む隙もない老人のそういう生きかた、
あるいは死にかたに、かえってゆとりが感じられるのは何故だろう。」
それは、執着がないからではないだろうか?
そして、大事なモノは何かという事が、
確固とした信念となっているからではないだろうか?
信念というよりももっと
当たり前に備わっている観念。
生きていることの様々な事柄を掴んで離すまいとする私たちとは
体の深い部分から根本的に違いがあるのではないだろうか?
エスキモーの生活を見たわけでも
体験したわけでもないので
あくまでも臆測にすぎないが、
おそろしくシンプルな生き方である。
食料を求めて移動する動物も同じように、
若い者達が移動を始めても
力がなくなった老いたものはその場に座り込み動こうとしないという。
植物は水がなくて枯れ始めるとき、
根から最も遠い新しい葉は残し、
根からとても近くにあっても古い葉から枯れていく。
エスキモーの人々は
きっと
自分も自然の一部だということが、
考えなくても身についているのではないだろうか?
まるで動物や植物と同じように。
大事な事は何か。
それは自分の命という小さなモノにとどまらない、
子孫が脈々と繁栄し続ける事だという
果てしなく大きな目線で
生きているのではないだろうか?
などと思ってみた。